マーケティング(およびデータ分析)において、ストーリー
(モノにまつわるストーリー、消費者がそのモノを使うストーリー)が重視されている昨今、
文学史、哲学史が辿ってきた変遷は何かしらヒントを与えてくれるかもしれません。

今回は、『アフター・モダニティ』の読書感想として、
大胆にもデータ分析と絡めながら備忘録として記したいと思います。



そもそも私はこの本を理解しきっていないと自覚しておりますので、
本当に大胆、というか強引にデータ分析と絡めていきます。
どれくらい大胆かというと、100万人の50GBのアクセスログから、
特徴的なクラスタの導線を目視で分析してみようというくらい大胆(絶望的)な試みです。



この本は、明治から昭和までの近代日本の思想と批評を述べております。
なぜ明治から昭和なのか、それは、現代とは戦後の終焉であり、
「戦後の終焉とは、要するに明治以来のこの国の基本的条件に戻っただけだ
(中略)開国以前の自分自身に閉じこもることは許されず、しかも「普遍的価値」をそのまま信じ切ることも
できない – このジレンマ」
(P.230)がまさに”今”だとしているからです。

では、明治から昭和にかけて辿ってきた近代日本の思想と批評とは何か、
それは「古典主義」から「ロマン主義」、「新感覚派」となり、
それを超越していく変遷であるようです。

上記を「『アナ雪』とは、お姉さんがレリゴーしたので、山男と雪だるまと一緒に説得しに行くが追い返されたけど、
最終的に仲直りした話」
くらいのざっくりさで見ていくと

「古典主義」物事には唯一の全体的な形式美、ルール、秩序があると考える。
「ロマン主義」信じられるのは自分自身の内面、自我と考える。
「新感覚派」自我を超越した非人間的なグループの挙動として物事を捉える。
となるかと思います。

古典主義的(帝国的)なものに対する反感から、ロマン主義がでてきたのですが、
価値観の大転換(明治維新、関東大震災や、第一次世界大戦などの激動)を生きるに、
「そもそも自分が信じていた自分の内面て何?自分が正しいてどうして言い切れるの?」
と揺らぎ、危機的状況において、むしろ絶対的なもの(価値観もそうだし、英雄的なものも)
を求めるという矛盾を生じることになります。

さらに、本来自由と思っている自分の自我も、外界の影響を拭えず、
だとすれば、「人間はもはや自らの意思で動く主体ではなく、ただその時々の状況、機械、情報によって
動かされる断片的なモノでしかない(中略)「個人」はその主体性の地位を失って、自動的な集団の流れの一部、
あるいは世界の不気味なうねりの一部と化していく」
(P.150)のかもしれない。

つまり、「私」を説明するとき、因果的に「Aを選んだ」私、と人は説明したがるが、
ではなぜ、「Aを選び、BやCを選ぶわけにはいかなかったのか」と突き詰めていくと、
その根拠は「私が私だったから=無い」ということに気づいていく。(P.195参照)

しかしこのような追求の中に、「強いられた私」の中に「私」と出会い続けていく事が
近代日本を生きていくことである、ということが述べられています。



前提が長くなりましたが、上記を手がかりに、
今日のマーケティングの現場で頻出している”KPIの見直し”、
についてどのように取り組んでいけばよいか、考えてみます。

古典主義的な、”絶対的価値観”(例えば高度経済成長期における”豊かさ”)が
企業あるいは消費者の中にあるうちは、”モノ(商品)”を通して得られる消費者のその価値の向上を
売り上げに寄与する中間KPIとして(アンケートなどで取得して)いけばよさそうです。
しかしロマン主義的な”自分の内面をそれぞれが見つめ直す多様な価値観”が消費者の中に出てくると、
「究極的には売り上げを上げる事を考えることが必要だが、
そのための”ブランディング”として、消費者のどのような価値観に訴えていけばいいのか、何を向上させていけばよいのか」
という問題に当たります。
つまり数値としての中間KPI(訪問人数、来店など)はあるが、
“価値観としてのKPI”(たとえば、ブランドが掲げる理念への同意、理解度につながる指標)をどうすればよいかということです。
※一方で表現、テクノロジーはますます高度になっていきますので、訴求力は上がっていきます。

ここで、新感覚派的に、「ひとまずブランディングとか中間KPIは置いておき、
最終的な売り上げに寄与する、それぞれの要因を、”消費者はその時々の状況、機械、情報によって
動かされる集団(クラスタ)”として捉え、構造を分析していく」という考えもあると思います。
(売り上げ以外のKPI不在、あるいは数値としての中間KPIはあるが、”価値観としてのKPI”は不在)

上記は、割り切りとして一見正しそうですが、数値的なKPIの目標達成で困る事が2つあります。
(1) すべての重要な原因となる指標がテーブル上に乗っているという前提
でないと、共分散構造分析でも、ロジスティック回帰によっても、手持ちのデータから、
誤った結論を導くか、あるいは「その他」的な謎の要因が決定的な重要度を持つ事になってしまい、
結局アクショナブルではないモデルとなってしまいます。

(2) スコープが変わると1つのモデルで対応するのは無理がある
これは、たとえば、メディア含め外部要因を一つのモデルで表す事ができても、
クリエイティブ要因までそのモデルに組み込もうとすると、複雑になりすぎるという意味です。
そして、クリエイティブ要因も、「商品が正面から写っている紫色のカット」が効率が良いとなった場合でも、
それをどのように表現するかは、モデリングで対応するには(ダイレクト商材でない場合)限界があります。


上記を考えるに、ひとまずのところ、”モデリングをインサイトでサンドイッチ”するということから、
消費者理解、価値観のKPIを策定していくことが良いのでは、という考えにいたりました。

つまり、モデリングそのものに、その分析者のクセ、思いが入ることを前提とし、
(どのような変数を用い、どのような前処理を経て、どのような構造を仮定するか)
モデリングの結果についても、欠落していると思われるパートを抽出するとともに、
ストーリーテリングで補っていく、ことの繰り返しの中で、ようやく消費者に強いられている環境を取り除いた、
消費者そのものを理解することができるかもしれない、ということです。
モデリングとはインサイトワークと表裏一体のエモーショナルな作業、と言い換えてもいいかもしれません。


最後に、この本でグサっときた一言を前後の文脈はともかく引用します。

「既知の構造を器用に使いこなし、それを世界に当てはめ続けることしか知らない人間に、
“在るが儘の世界を見るという事”はできない」(P.178)


いかがでしたでしょうか(ふるえる声で)
デフォルト怒られているような気持ちになる不思議な読後感でした。
※良書です。