先日のTakumiSimulator(※)以降、
機会があって、様々な方のsimulatorを作成しております。
※友人のTakumi君の過去のSNS上の発言履歴を解析して、
 自動でTakumi君がいいそうなことを言い続けるbot



simulatorは、毎回必ず動的なparameterを入れており、
任意に変更出来るようにしております。

この可変parameterですが、当初はユーモアを出すため(極端な発言を増やすため)に
入れていたのですが、当の本人(simulatorの元になっている人たち)にとっては、
また別の気づきがあるようです。

それは、”自分という人格”の認識が大抵「通常時」の認識(もっというと少し良い状態)であるということによるものです。
parameterをいじって、「テンパっているとき」「鬱なとき」など様々なネガティブな状況を再現すると、
「仕事が忙しい時に後輩に話しかけられると、こういう対応をしてしまっているのか」など、
(うすうすはわかっていた)自分の側面に対峙せざるを得ないということです。

鏡の前に立つと人は無意識のうちに、少し凛々しい顔立ちを心がけると思うのですが、
通常時は鏡の前よりも、気を抜いた表情になってしまいがちです。
しかしそれが、他人が見ている”自分”なのだと思います。

同様に、”自分という人格”も、自分は「良い状態であったときの自分」というバイアスががかった自分を
無意識のうちに「通常時の自分」として認識するかもしれません。
しかし、他人は、もっと気を抜いたときの自分、も含めて”あなた”を認識している、
もっというと、ネガティブな状態こそ(自分が思う以上に)印象に残っているかもしれません。

現在、様々な”自分自身のデータ”が容易に入手できるようになりましたが、
その結果、見えてくる自分の像は「こんなはずではなかった!」と思うような他人のような自分なのかもしれません。


さて、しかし、ここで本質的な問題は”私という人格”とは一体何なのでしょうかということです。
下記書籍から面白い一説がありますのでご紹介します。



“脳には、判断を下すただひとつのホムンクルスやCPUやペンティアムチップがあるのではない。
むしろ指揮中枢にあるさまざまなサブ中枢が、CEOの注意を引こうと絶えず競い合っている。
そのため、思考にスムーズで安定した連続性はなく、さまざまなフィードバックループの不協和音が
しのぎを削っているのだ。あらゆる判断を連続的に下す
一個のまとまった総体として存在する「私」という概念は、われわれ自身が意識下の心で生み出す錯覚なのである”
(P.50)

右脳と左脳で別々の”意識”があるという研究もあるようでして、
自己認識のズレとは、”(錯覚である)総体としての私”と、”個々のフィードバックループである私”の
ズレなのかもしれません。

私が現在作っているのはブラウザベースの、なんちゃって機械学習によるただのbotですが、
BMI(ブレイン・マシン・インタフェース)の研究が進化し、
容易に誰でも実現出来るようになると、Makers時代と相まって、
脳波による”意識”を利用したデジタルファブリケーションがますます増えていくように思います。